人生を変えるコーチングルーム
Love Your life , Live Your Life

自己紹介と人生史

こんにちは。高間と申します。あなたのユニークを伸ばすと会社に依存しない生き方ができるようになります。

私は30代も後半になって、自分のユニークネスを伸ばすことを意識しはじめ、そこに集中することでユニークな成果を生んでいます。

会社を辞めて数ヶ月で月収100万円達成!などの目覚ましい成果は私にはありませんが、普通の(どっちかというと会社ではパッとしない)人でも輝く事が出来ます。

こんな人と繋がりたい

  • なにかに挑戦する人
  • なりたい自分がある人
  • 強みなんてないと思っているけど、それを信じきれない人
  • 会社員を辞めたい人
  • 才能を伸ばしたい人
  • 独立開業したい人

現在の私について

●2児のパパ(男の子・女の子)

●プロコーチ(2019年末に認定取得)

●現役人事

Artist として世界Tourをするのが夢

●ラジオパーソナリティ

●PodCaster

●キャリコンサルタント受験勉強中

パッとしない人生がコーチングで変わった

●23歳 就職。氷河期。苦労してやっと就職したものの、仕事がまったくできず、クビを覚悟。辞表を2回出すも取り合ってくれない。

●26歳 結婚。あいかわず仕事ができない。部門を異動、上司と合わない。
しかし仕事の中で自分の強みを見つけはじめた。情報収集、まとめる。子供を二人授かる。

●34歳 人事の仕事開始。面白いがきつい。長時間労働。
強みが熟してきた。ユニークなアイデア、プレゼンテーション

●38歳 転職、失敗。人生史上最もあわない上司。5ヶ月で会社を逃げだす。失業状態。

●38歳 無事に仕事が見つかる。

激烈に認めてくれる上司に出会い、自己認識が大きく変わる。またコーチングを学び、行動力、スピードが大幅に増し、「めちゃくちゃ遠い」と思っていた夢が現実になりつつある

コーチングにであい、人生が大きくかわろうとしている

ダラダラと40歳になり、コーチングに出会い生き方が変わりました。行動量がとても増え、考えている時間が減りました。

コーチングを始めてからの出来事

2019年

音楽 コーチング
1月 楽曲づくり 苦しい
2月 楽曲づくり 苦しい
3月 楽曲づくり 苦しい いい感じの曲ができた。
4月 楽曲づくり 好きなアーティストに送ってみたら繋がった。しかしリリースは未達
5月 GWはひたすら楽曲づくり。リリースなし
6月 ネクストレベルに行くためにスクールに通うことを検討
7月 スクールに入学。先生から海外にどんどん送れ!と。 毎週コーチングを学び始める
8月 先生のアドバイスに従いすぐに送り、4件のリリース案件を決める コーチングの練習セッションを開始
9月 楽曲リリース 練習セッションで行動がどんどん加速、100回練習を積むことを目標に。プロコーチになる決意
10月 リリース先のレーベルオーナーに、フランスのビッグフェスにDJ出演する口約束をとりつける。テンションがあがり、行動がさらに増える。ラジオ出演を果たす。意外と緊張しなかった。自分を褒めてあげたい 100回練習がマンネリ化、FBで募集、無料で本番コーチングを決める

2020年

1月 毎日1曲ペースで作曲。ラジオDJになる決意 元旦からコーチングを受けてくれる人が。これは嬉しい
2月 毎日1曲ペースで作曲。オリジナル曲だけのDJミックスも作成 コーチング練習継続中
3月 全曲オリジナルでDJ出演。とてもよい反響 企業様に提供する案件を獲得。(しかしコロナで延期)
4月 リリースの案件を立て続けに決める。Booking Agencyから突然連絡。「あなたをブッキングDJとして登録したい」とのこと。

これを機に他のAgencyにも登録する動きを始め、ツテをたどって紹介を受け、更に1件登録。

コーチング練習継続中
5月 年末にリリースを決めたロシアのレーベルからリリースが立て続けに。チャートインも果たし、じわじわと認知が進む。

ラジオデビュー。PODCASTも開始

カウンセリングも学習し始めた

決して凄まじいスピードではありませんが、少しづつコツコツと進んでいる実感ががあります。行動が増えるとドライブしている気にはなりますが、実際よい出来事がふえてきた。エピソードはこちら

さて、私についてさらに詳しく書いてみました。よろしければどうぞ。

幼少期~小学校時代

幼少期は内向的でおとなしく遊んでいる方だった。本を読んでいる時間が多かった。中でも子供の頃の原体験になっているのはミヒャエルエンデのはてしない物語と言う本。小学4年生くらいの頃に読んだと思う。これはものすごい本です。私を含めてたくさんの子供の心を空想でいっぱいにするだけの力があった。

この本を読んでから、空想の世界で遊ぶことは自分だけのとても大切な時間になった。この本は未だに自分の本棚に大切にコレクションしている。小学校4年生から塾に通い始めた。
入った塾は母親が口コミで聞きつけてきた個人経営の塾だった。

この塾の教師がとても個性的でとにかく教えるのが上手。それと同じ位、同業他社の大手塾の悪口もたくさん言うのですっかり「大手塾はダメで、ウチの塾は最高だ」と信じきってしまった。今思うとかなり偏った考え方だが、学んだ事も多かった。たとえば、その教師は「とにかく人と違うことをしろ」と教えてくれた。

また、世間の常識を徹底的に批判する教師だった。口の悪さも強烈だった笑 私は自分の大事にする価値観に忠実に生きることこそ、幸せであると思っている。現在の思想のベースはこのときに作られた。

その教師の強烈な個性に惹かれ、私立中学を目指すことになんの疑いもなく、脇目もふらずに勉強した。徹夜もした。

ただ、歴史の勉強は私には遊びだった。自分が暮らしている日本の過去には見たことのない世界が広がっていた、という事実がワクワクさせてくれた。歴史の勉強は私にとってはファンタジーと同じだった。

出来事を覚えるよりも、出来事をきっかけに、その出来事が起こった時の情景などを想像した。しかも登場人物は実在の人物である。歴史の勉強だけは辛くもなんともなかった。この「はてしない物語」との出会いは私のその後の人生に小さくない影響を及ぼした。

今でも「ファンタジー」が私の価値観の大部分を占めている。ファンタジーをGoogleで調べると、「空想、幻想」と出てくる。

現実ではないかもしれない、ここではない世界、まだ見ぬ世界、憧れの世界、憧れている
状態、理想の状態を常に追い求めている。たまたま、私は耳が少しだけ良かったようで、音の記憶が比較的確かで、好きな曲を頭の中で再現するということができる。

余談になるが、オリバーサックス氏によれば、人間には、音楽専門の記憶領域があるようだ。私はその部位が少し発達していたようで、音楽にのめり込んだのも、好きな曲を頭の中で反芻することでどんどん記憶が強化され、ハマったのだと思う。

そういう経緯で、現在の私にとって、音楽はファンタジーそのものである。空想、幻想を形にして表現する手段である。

と、カッコつけて書いてしまったが、空想、幻想が頭の中でありありと再現できるような素晴らしい才能は残念ながら、私には無い。ビジョンが見える人は羨ましい。なので、私は量の中に質を見出すアプローチをとっている。仕事量は質を高める。

話がそれたので戻します。

中学時代

第一志望はのがしたものの、第ニ志望の中学に合格した。しかし、私にとって、モチベーションの源は高い壁を越えるというそれだけのこと。

受験に成功した瞬間はそれは嬉しかったが、憧れだったはずの学校に通い始めたその時から、憧れは憧れではなくなり、ただの変化のない学校生活になってしまった。

自分のやりたいことや楽しいことなんかはそのうち見つかるだろう。そんな受け身状態で中学時代を過ごした。中学生の時の学校生活は記憶がうっすらとしている。あまり明確な記憶は無い。

程なく授業中に居眠りを始めた。数時間の講義を受け身で聴く状態になると必ず寝てしまう。ちなみに、これは今でも同じ。目的を持たずに受ける授業は必ず集中力が切れる。

私のような悩みのある方は多分おられると思う。私にとっては受け身で聞くだけの授業は苦痛で仕方がなかった。聞いていてもすぐに思考が他のところに行ったり余計なことを考えたり頭に入ってこない。

このような状態なので学校の成績はとても悪く、心配をした母が家庭教師をつけてくれた。
しかし私は家庭教師がきても、横で居眠りをした。

先生とどのような会話をしたのか覚えていない。なぜなら、寝ていたから。先生もよくこんな生徒に付き合ってくれた。

しかし音楽にはのめり込んだ。最も激烈に影響を受けたのがマイケルジャクソン。ショッキングなくらいカッコよかった。

放映は全てビデオにとり、何度も見て研究し、ダンスを隅々まで真似た。しかし残念ながら、スタイルやルックスに差がありすぎる。なんとなれば本気でマイケルになりたかったが、持っているリソースが違いすぎ、努力でカバーできないことをすぐに理解した私は、無意識に別の方向でマイケルを目指すことにした。

ちょうどこの頃、母がテストの点数に応じてお小遣いが上下する仕組みを取りれてくれた。私には勉強を頑張るモチベーションに十分すぎるくらい作用した。

目的は新しいCDを買うこと。当時はCDが1枚3000円もした。当然たくさんは買えないが、音楽を楽しむことはできた。貸しCD屋も利用して、ロックやソウル、ファンクなどを聞くようになった。

特に、ブラック・ミュージックに強く惹かれた。Pfunkや、New jack swingなどのスタイルの曲をよく聞いていた。PRINCEにもこの当時にハマった。

高校時代

さて、高校に入り、音楽仲間ができバンド活動を始めた。他のことはやらなかった。ほそぼそとやっていた少林寺拳法部も途中で辞めた。モチベーションが続かなかったから。

さて、2年生になり、大学受検が近づいてきて、流石に焦りを感じ、大手の塾にも通った。よい大学に入る、という目標は疑いもしなかった。小学生のときに決めた目標だったから、というそれだけの理由で。今思うと、思い込みは怖い。考える力を奪うとも言える。よい大学に入る。という目的のためだけに頑張れたのもある意味すごい。

授業に集中することが全くできず他の生徒が理解してどんどん進んでいるのに、自分だけ置いてきぼりを食っているような感覚。数ヶ月通って、これはまずいなと思い独学で勉強する方向にスイッチした。

独学での勉強は自分に向いていた。無我夢中で勉強した。耳栓をし、テレビを遠ざけて勉強以外は音楽を聞くことだけが楽しみだった。

母親から聞くと鬼気迫るものがあったそうだ。学校から帰宅して12時に寝るまで、毎日5時間程度勉強していた。世の中の受験生にとっては当たり前か。夏休みはその倍くらい勉強した。

結果、第一志望の関西学院大学に合格。
広島から関西になんとしてでも出たかったのと、おしゃれで素敵なイメージがあった、この大学に決めた。

大学時代

案の定、大学に入ってからはやはり目的を見失ってしまった。大学合格は目的ではなくあくまでも目標であるはず。

しかし、自分にとっては目的になってしまっており大学に入ってからこれがやりたいと言う目標はなく、なんとなく音楽のクラブに入りダラダラとした毎日を過ごすように。

その生活の中で、現在も本気で取り組んでいるハウスミュージックに出会った。
当時、梅田のLOFTにWAVEというCOショップがあった。この店にはアナログレコードコーナーが大々的に設けられており、ここで初めてHOUSEのレコードを買った。アルバイト代をほとんどつぎ込み、アナログレコードを買った。

大学に入り自分を劣等感が占めるように

ところで、大学2年生くらいから、劣等感のようなものを感じるようになった。

大学に入るまで、人間関係で友人作りを積極的に行ったことがなかった私は大学になってから、いろんな人との人間関係を積極的に作っておかねばならないと真面目に考え、ウマが合わないと感じる人とも付き合うように。今思うと相手にとって失礼なことだ。

音楽意外の話題はない。スポーツも、政治も、お酒も、同じ年代の人が楽しむことが一切楽しいと思ったことがない。

極めて狭い世界の中で生きてきたという自覚があった私は社会にフィットすることができるのか、不安だった。そのため、他人と何を話して何を一緒に楽せばよいのか、よくわからなかった。友人はほしいが、どうすれば友人を作ることができるのか。

とにかく人間関係を広げていくことを意識的にやり始めた。その結果、自分ができないことをができる人間が多いことに気づいた。優秀な生徒の多い学校なので当然だ。しかし、その頃の私はとても幼く、自分はすべての点で人より優れていなければならないと思い込んでいた。

今では当時の自分に喝を入れたい。間違った考えにより、自分で自分を苦しめるようになり、毎日がとても憂鬱になっていった。

挙句の果てに、3年生くらいから体調を崩し、毎日頭痛がするようになった。慢性的に肩がこり、体がだるく、認知機能が著しく落ちた。

他人と会話することに極端にストレスを感じるようになり、言葉が出てこない、「こいつ馬鹿なんじゃないか」と思われるんじゃないか、という恐怖に取り憑かれ、人と話すことが怖くなった。体調はますます悪くなった。

社会人になって劣等感がさらに強化

私は病院の事務総合職として就職した。なぜならば当時病院に就職する大卒が少なかったから。転勤もなく、大卒ということで良い意味で目立ち、面白い仕事が出来るだろう。また、営業として就職すると転居を強要されるのも嫌だったから。

そう思って安い給料に目をつむり飛び込んでみた。しかし自分にはことごとく合わなかった。決められたことを決められたようにきっちりこなすことが出来なかった。

これは今だから言えることだが、当時の私は自分の強みや弱み正確に把握していなかった。コンパスを持たず就職したようなものだ。

学生のときに患った体調不良と対人恐怖は就職してからも続いた。よく寝ているはずなのに、仕事中に常に眠く、体がだるい。先輩から、上司からどう思われているのか怖い。

ミスをするとどう思われるだろうか。注意と努力を向ける対象が完全に間違っていた。実際私は入って、1ヵ月の間にミスを連発して先輩たちから仕事の出来ない高学歴社員として見られるようになった。人からの評価を敏感に感じていた当時の私はいっそ死んだほうが楽なのに、と思うようにもなった。

転職するのは現在ほど簡単ではなかった当時、動くに動けず、そのうち、購買の部門に異動に。

この部門に異動してから、上司に強烈に痛めつけられた。理不尽な仕事やHowToをきいても教えてもらえない環境でストレスはMAXまで高まり、劣等感と絶望感、憂鬱はとても強くなった。

社会時4年目。なんとしてでも認められたい。しかし、「正確にきっちり」ができない。努力はしたが、求められている「キッチリこなす」ことは私にはとても困難なことだった。

数年続けたが次第に疲れを覚え始めた。求められているスキルは伸びない、誰にも認められない、周りとも合わない。

自分で何かを成し遂げたいと思い、株式投資を始め失敗

仕事で自己効力感を感じることがなかった私はなんとしてでも自分で決めた事柄で成果を出したかった。

私が会社で仕事を続ける理由は家族を養うためと、認められることだけだった。それはどうしてもかなわない。現実から逃げたいのと、自分で人生をコントロールしたい、という気持ちで始めた株式投資。これがボロ負けした。100万円以上は負けていると思う。

今思うと、短期的な利益を追い求める傾向が強く、冷静な判断と忍耐が足りなかった。株式投資やFXなどの、精神状態が成果に如実に反映される仕事は、当時の私には成果を出しにくい分野だった。

しかし、株式投資・FXでは凄まじい(間違った)努力をした。本は100冊くらい読んだし、感情を極力廃するためにプログラミングを学び、私の代わりにトレードしてくれるロボットも(!)作ろうとした。

2年位はプログラムの開発に費やしたと思う。株式市場で勝つために、毎日プログラムを書いた。努力の方向を完全に間違っている。

努力の結果、プログラミングの能力は飛躍的に伸びた。しかし望んだように、自分の人生をコントロールしたいという結果は出なかった。

短期的に成果を出したい私はチャンスでもない場面で大きなトレードをしがちだったのだ。自分に課したはずの規律もル-ルもコロコロ替え、損が出たらなんとしてでも取り返し、むりやりにでも利益に転じさせるくらいの態度だった。

つまりその日に儲けることに躍起になり、必要以上に相場に出入りして冷静さを失っているのだ。損をしながらでたらめなトレードをやめなければならないことはわかっていた。しかし出来ない。アルコール中毒の方の精神状態はこんなものなのかもしれない。

何より辛くて仕方がなかった。プロセスが辛いことは前向きに取り組むパワーを削ぎ落とす。楽しいと思ったことは殆どない。

やめる2年前にはスクールにも通い、スキルを一から学びなおしたが、やはり結果は全く出なかった。この分野での努力は目が出ない、とやっと思ったのが、初めてから10年後だった。

自分は脳に障害があるのではないかと思い始めた

30歳くらいから、私はどうも自分が人と違うと悩み始めた。何に取り組んでも全く結果がでない。あらゆる能力が人と異なる。しかし、自分と他人の何が違うのかよくわからない。

周囲と比べて著しく秀でている部分がある。しかし、正確にミスなく行う仕事や同じことの繰り返しの仕事は苦手だった。

また、私は人からの評価を常に恐れていた。普段仕事で接することのない会社の役員がどうやら評価してくれている、ということ以外、直接の上司が認めてくれるという経験がほとんどなかった私は、出社するだけで多大なストレスを感じ「劣等感」「ネガティブ思考」が強く刻まれ、常に疲労状態で仕事をしていた。

思考すべき場面で頭が50%くらいしか働かない状態が10年以上続いた。2012年ごろから、体が疲れているのに眠れないという状態になった。

たとえば会議。話がどこまでいってるのかよくわからなくなったり、話についていけずに、寝不足の上にさらに疲れて居眠りをすることも多かった。

何かがおかしい、何かが違うということを明らかにしたく、心療内科に通いはじめたのが34歳の時だったと思う。この心療内科ではベンゾジアゼピン系の薬を出してもらい、しばらく飲んでいた。

薬をもらってから何とか眠れるようにはなったが、根本的な解決には至らなかった。また心療内科に通い始めたそもそものきっかけは、自分をよく知りたい、もしかしたら発達障害なのではないかと思い始め、何が何でも自分が認められない理由を探りたかった。

自分の職務スキルに問題があるらしいことはわかっているが、改善の努力は十二分にした。何か、決定的に欠けている要素があるはずだと思い、それを明らかにしたかったためだ。

発達障害の診断に10年近くかかった

通い始めた心療内科では診断をもらうことができなかった。しばらく通っていたが、私は診断をしてほしかったので、別の病院に行き、WaisⅢというテストで発達障害を検査してもらった。

その結果、アスペルガーの傾向があるということを医師から言われた。しかしもう一つ納得いかなかった。それまでウェブや本で発達障害についての知識は読み漁って調べまくっていたので、知識はあった。

どう考えても自分がアスペルガーと思えない。むしろADHD傾向があると言われたほうがまだ納得がいく気がした。診断されることで、自分の凹んだ部分を理解し、対策したかったのだ。

しかし先生から出された診断は全く違ったものであり、どう考えても納得ができなかった。その病院には通わなくなり、結局2019年の1月に、また別の病院でWaisⅢを受けて診断を確定できた。

診断をしてくれた医師は発達障害の専門医であり、知見も豊富であった。臨床心理士が結果の印字されたグラフや数値を見せながら説明してくれたあとに、先生の診断を聞いた。

グラフを見ながら、「この程度の乖離(グラフ上での数値の乖離)はよくありますよ」
という内容のことを言われた。最後に「あなたは発達障害ではありません、薬は出せません」と爽やかに言われた。

その時の先生の言葉には確信めいたものを感じた。私は肩の荷がすっと降りた気がした。エビデンスを示されたわけではないが、私はこの先生の言葉を信じようと思った。

学生時代からカウントすると20年近い年月、自分と他人を比べて随分回り道をして考え続けてきたが、自分探しの旅はここで終わった。

すでに39歳。人生折り返し地点で初めてスタート地点に立った。こんなに回り道をする人は他にいないだろうと思う。だからこそ、苦しんでいる人の気持ちがわかるし、才能を生かすということが人生を変えることも知っている。

自信を持つことができたのは一人の上司と音楽での成果

上記は、私のあまりぱっとしない半生を語った話である。ここからは私の人生が変わり始めたエピソードについて語る。

2017年に入社した3社目の会社で、上司である役員に激烈に認められた。仕事で上司に手放しで認められることは初めての経験だった。この上司は会社の中でも数少ない、仕事の本質を捉える方だった。私は猛烈に共感した。

考え方が合うので、仕事はどんどん進み、毎日が楽しかった。1年後にその役員は定年で退職されたが、わずか1年で「仕事で人に認められたい」という承認欲求は十分に満たされた。この経験から、私は自分を客観視できるようになった。承認されることへの飢えのような乾きは嘘のように引いた。

もう一つ自分を変えた要因は音楽制作とリリース活動の努力と成果である。2016年5月、 大学時代の先輩に誘われ、音楽づくりを始めた。 作り方が分からないなりになんとかはじめ、その時ちょうど開催されていた、有名なテクノアーティストの曲をリミックスするというコンクールに応募した。

一曲作るのに10時間以上かけたと思う。 リミックスは2曲分送った。なんと、この一曲が寡作に入り、とても嬉しかったことを覚えている。

そこから曲作りを本格的に始め、1日に2時間から3時間程度、時間をかけた。やり始めたらとても熱中した。土日は用事がある時間以外は全てを楽曲作りに費やし、朝から長時間曲作りをした。

8月にはそこそこ良いのではないかと思える数曲の楽曲ができ、 海外のレコードレベルに送ってみたところ、なんとウクライナのレコードレーベルから返事があった。まさか返事が来るとは思っていなかったので、とても嬉しかった。話はトントン拍子に進み初のリリースは10月に決まった。

楽曲制作をどんどん進め、 イタリアのレーベルからアルバムが出ることになった。このアルバムの中の一曲はアルファロメオのプロモーション用のコンピレーションに収録されている。以下は初めてリリースされた曲。

こういう活動していると、海外から声がかかるということも起こる。突然メキシコのレコ-ドレーベルから連絡があり、コラボレーションが実現したということもあった。

いつのまにか DTM は私の自己実現の大切な舞台になった。日本で誰にも認められなかった人間の楽曲を世界が認めてくれる。これはものすごく嬉しかった。

セールスはさっぱりだが、 クオリティを高め、プロモーションをしっかりやってくれるレコードレーベルからリリースすることができれば、海外にDJで遠征もあり得る。夢は大きく広がった。

社会人になってから、初めて自分の力で夢を実現できるかもしれないと思った。死んだように生きてきた私が少しづつ息を吹き返した。

とりあえずリリースするということを目標にするフェーズはすぐにクリアした。次はハイクラスレーベルにリーチすることを目標に、2017年は8タイトル、2018年はビジネススクールが忙しく、4タイトルリリース。そして2019年、4つのレーベルから5タイトルをリリース 。

2019年末にはついに老舗の超有名レーベルから声をかけられるというところにまで来た。その話は結局なくなってしまったが、自分にとってものすごく大きな自信となった。

上記のレーベルのうち、一つのレーベルオーナーにおそるおそる海外にDJで呼んでくれ、と声をかけてみた。すると、あっさりOK。海外にDJに呼ばれる、ということは一気に実現可能な目標になった。

2020年4月にはBooking Agencyから突然連絡がきた。(DJイベント等があると、Agencyに登録しているDJに声をかけ、DJをイベントにあてがう仕事。私が登録したのは渡航費用や宿代を出すなどの条件でブッキングを斡旋してくれるそうだ)

夢の実現が一気に加速した。コロナウイルスの影響で海外行きは少し先になりそうなものの、確実に夢の実現が近づいている予感がある。

以下は私の曲だけで構成したDJ MIX。

40歳にして人生の目的を見つけた

39歳にして、他人軸での承認欲求はほぼなくなり、自己肯定感は最高に。

他者に貢献がしたいとも思うようになった。

マッチしない環境で努力して花が咲かない期間がとても長かった経験から、このような思いをする人は一人でも減らしたい。

人は全員がユニークな存在である。私はユニークネスを活かせる領域は音楽やコーチングだったが、ユニークネスは磨くと、同じ強みを持たない人には絶対に到達できない領域に行くことができると思う。

プロセス自体を楽しめる為、レベルが上がリ続ける。その結果として他人に感謝される。このサイクルは黄金である。

さて、個人を活かすと企業の活動にはどのように良いことがあるのか。中小企業は人的資源が圧倒的に足りない。一人ひとりが才能を自覚し、徹底的に使い倒すことが今後の企業活動のキーになると思う。

私は、ストレングスファインダー、そしてコーチングに出会い才能を活かして行動し、成果を出すことを知った。

そのため、現在は時間を自分の目的達成のために使うことを意識している。ぐちを言い合うだけの酒の場は避けている。そのため、会社では変人扱いされている。

2020年5月には転居を伴う人事異動を断った。苦しい選択だったが迷いはなかった。家族と離れてまで仕事を優先するのはナンセンスだとおもったからである。

私の人生の目的は自分自身がもっともっとキラキラと輝くことと、家族の幸せ、そして輝きたい人を応援し、成し遂げたいことを成し遂げさせることである。このブログでは、何歳からでも才能を活かして人生をドライブする人を全力で応援することという私の人生目的に沿った記事を書いていくつもりである。

特に、自分には強みなんてない、と思い込んでいるあなたにはおすすめだ。何らかのなりたい自分がある人は全力で応援したい。

なぜ私がコーチになりたいと思ったのか

人生順風満帆だったら、コーチになるなんて考えなかっただろうと思う。私の人生は紆余曲折そのものだ。

しかし、40歳にしてブレイクスルーのきっかけを与えてくれたのはコーチングだった。コーチングのおかげで、行動のリミッターが外れた。

成果=意欲×能力×行動量

成果とは上記の式で説明がつくと思っている。意欲は最も大事な要素である。
意欲がなければ能力があっても活かせない。行動の源泉である意欲がどのような欲求であるか、ということを理解すると、自分の行動も理解できる。

私の欲求は2つある。自己表現と、自己実現である。音楽は私の内面にあるファンタジーを表現する手段である。自己実現は音楽を通じて世界に出ていき、人が驚くような活躍をすることである。

人生の目的があれば、すべてそこに至るまでの試行錯誤なのである。コーチングのおかげで道が見えた。あとは道を歩いていくだけである。単純明快である。

人生に迷っていたときは、私がみていた景色は濃いグレーに塗りたくられていた。しかし、迷いがなくなると見える景色が明るくなってきた。

如何に優れたアスリートであってもコーチなしでは成果は出せない。人が輝くには自分にフィットするコーチが必ず必要だ。コーチングは自分一人で到達できないところに運んでくれるスポーツ仕様の馬車だ。私はこのような思いでコーチをしている。

1万字を超える長文を読んで頂き、ありがとうございました。